さまよえるオランダ人 バイロイト音楽祭

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JUN 2024 Next

さまよえるオランダ人 Der fliegende Holländer

 

作曲&台本(ドイツ語):リヒャルト・ワーグナー

初演:1843年1月2日ドレスデン宮廷劇場

 

あらすじ

 

時と場所:18世紀ノルウェーの海岸

 

第1幕

オランダ人の船長は神の怒りを買ったために、永久に死ぬことを許されず、海上をさまよわなければならないのだ。その呪いが解けるのは、女性の真実の愛を得たときだけ。七年に一回上陸が許されるが、彼のため生涯貞操を誓う女性と出会わなければ、再び海に帰らねばならない。激しい嵐の日、強風に流されてノルウェー船が岸に流れ着く。舵手が郷愁の歌を歌いつつ寝入ってしまうと、近くに黒いマストに血のような赤い帆のオランダ船が碇泊する。オランダ人はノルウェー船の船長ダーラントに、一人娘を妻にくれるならば、すべての財産を差し出すと言う。欲心に誘われたダーラントはこれに応じ、二隻の船は南風を受けダーラントの故郷に向かう。

 

第2幕

 

ダーラントの家で娘達が糸紡ぎをしている。ダーラントの娘ゼンタは部屋に掛けてあるオランダ人の肖像画を見つめながら、この不幸な男を救わずにはいられない気持ちになる。ゼンタは娘達から促され、乳母のマリーから習った「さまよえるオランダ人」のバラードを歌う。娘達が笑っても意に介さない。この時彼女を愛する猟師エリックが現れ、ダーラントの船が帰港したと伝える。恋人を待つ娘達は港へ急ぐ。エリックは昨夜見た夢のことをゼンタに話し、壁のオランダ人の肖像画は不吉だと警告する。しかしゼンタはその人を救うと言い出す。エリックは絶望して帰る。そこへダーラントがオランダ人を連れて来る。驚くゼンタ。黙って見つめ合う二人。父は娘に、この客はお前さえよければ、婿となる人だと言って席を外す。互いに深い想いを語る愛の二重唱。オランダ人はゼンタに呪われた運命を告げて求婚し、ゼンタはオランダ人に「永遠の貞節」を誓う。

 

第3幕

 

入江に、ダーラントのノルウェー船と見知らぬオランダ船が停泊している。ノルウェー船の水夫達が船上で飲めや歌えと大騒ぎをしていると、娘達が食べ物を持ってきた。彼らはオランダ船に一緒に飲もうと誘うが答えはない。そのうちにわかに雲行きが怪しくなり、嵐になるとオランダ船が点灯し、炎に照らされた船員が幽霊のように見え、歌声が聞こえる。ノルウェー船の水夫達も対抗して歌うが、オランダ船の船員の合唱に圧倒され、一同気味が悪くなり逃げ去る。そこへゼンタと彼女を追ってエリックがやってくる。エリックはゼンタに、かつて自分に愛を誓ったときのことを思い出させようとする。それを物陰で聞いてしまったオランダ人は「これで終わりだ。救済は永遠に失われた」と絶望の声を上げる。そしてゼンタに、自分こそは人々の恐れる「さまよえるオランダ人」であることを告げ、船に駆け戻り出航する。追いすがるゼンタ。ゼンタは海岸の岩の上に登り、オランダ人に対し終生の貞節を誓い、海に身を投げる。同時にオランダ人の船も砕けて沈没する。やがて船の破片漂う海に、二人の浄化された魂が昇天していく。(幕)

プログラムとキャスト

<スタッフ・キャスト>

 

指揮:Oksana Lyniv

演出:Dmitri Tcherniakov

舞台装置:Dmitri Tcherniakov

衣装:Elena Zaytseva

照明:Gleb Filshtinsky

脚色:Tatiana Werestchagina

合唱指揮:Eberhard Friedrich

 

ダーラント:Georg Zeppenfeld

ゼンタ:Elisabeth Teige

エリック:Andreas Schager

マリー:Nadine Weissmann

舵手:Attilio Glaser

オランダ人:John Lundgren

バイロイト音楽祭

バイロイト音楽祭(独: Bayreuther Festspiele)は、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトのバイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーの歌劇・楽劇を演目とする音楽祭である。別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭(Richard-Wagner-Festspiele)。

「バイロイトの第九」から現在まで

戦後、ヒトラー崇拝を止めなかったウィニフレッドを追放し、ヴィーラント・ワーグナー、ヴォルフガング・ワーグナーの兄弟が音楽祭を支えることとなり、バイロイトの民主化が一応なされた。1951年7月29日、フルトヴェングラー指揮の「第九」(そのライヴ録音が名盤として名高い)で音楽祭は再開された。再開後初出演したのはクナッパーツブッシュ(クナ)とカラヤンで あった。再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であった。苦肉の策でヴィーラントらは、最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて暗示的に舞台 背景を表現するという、新機軸の舞台を考案する。舞台稽古初日、舞台を見回したクナは愕然とする事になる。いまだにセットが準備されていないのだと思い込 み、「何だ、舞台がまだ空っぽじゃないか!」と怒鳴ったという。しかしこの資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻する事になる「新バイロイト様式」の始まりであった。

事情が事情であったが、指揮者のクナやカラヤンはこの演出に大いに不満であり、カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去ってしまった。クナもそうするつもりであったが、1953年の音楽祭に出演し、以降の出演も約束されていたクレメンス・クラウスが1954年に急死してしまった。慌てたヴィーラントとヴォルフガングはクナに詫びを入れ、音楽祭に呼び戻した。以降、亡くなる前年の1964年までクナはバイロイトの音楽面での主柱となった。「新バイロイト様式」の舞台は、ヴィーラントとヴォルフガングが交互に演出しながら1973年まで続いた。1955年には初のベルギー人指揮者として、ドイツ物も巧みに指揮したアンドレ・クリュイタンスが初出演。また、同年ヨーゼフ・カイルベルトが指揮した『ニーベルングの指輪』は英デッカにより全曲録音され、これが、世界初のステレオ全曲録音となった。1957年にはヴォルフガング・サヴァリッシュが当時の最年少記録(34歳)を打ち立てた。1960年には初のアメリカ人指揮者ロリン・マゼールが、史上最年少記録の更新(30歳)を果たして初出演した。1962年には巨匠カール・ベームが、1966年にはブーレーズが、1974年にはカルロス・クライバーがそれぞれ初出演した。演出の方も、1966年にヴィーラントが亡くなってからは弟のヴォルフガングが総監督の職を引き継いだ。ヴィーラント亡き後、ヴィーラントの遺族とヴォルフガング一家が互いの取り巻きを交えての内紛に明け暮れ、そのスキャンダルも相まって、同族運営が大きな批判に晒されるようになったことから、1973年、リヒャルト・ワーグナー財団に運営が移管された。同財団の運営権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府に最大の権限があり、次いでワーグナー家、バイロイト市、ワーグナー協会の順になっている。

1976年、ヴォルフガングは革新的な上演をもくろみ、音楽祭創立100周年の記念すべき『指環』の上演を、指揮者ピエール・ブーレーズと演出家パトリス・シェローの フランス人コンビに委ねた。シェローは気心知れた舞台担当や衣装担当を引き連れて、「ワーグナー上演の新しい一里塚」を打ち建てるつもりだったが、その斬 新な読み替え演出は物議を醸した。しかし初年度はブーレーズのフォルテを忌避するフランス的音楽作りともども、激しいブーイングと批判中傷にさらされてし まい、警備のために警察まで出動するという未曾有のスキャンダルになった。だがシェローは年毎に演出へ微修正を施し、ブーレーズの指揮も見る見る熟練して いったおかげもあり、最終年の1980年には非常に洗練された画期的舞台として、絶賛を浴びることとなった。

その後指揮者の顔ぶれは、レヴァインやジュゼッペ・シノーポリ、ダニエル・バレンボイムなどの若手や初のロシア人指揮者ヴァルデマル・ネルソンなど新しい顔ぶれに様変わりした。 2005年には東洋人として初めて大植英次が初出演を果たす。しかし、オペラ経験に乏しい大植の指揮は観客の不興を買い、1年で契約を打ち切られることとなった。翌年から『トリスタン』の指揮はベテランのペーター・シュナイダーに委ねられる。大植の降板劇は特に人種差別的なものではなく、過去の幾人かの指揮者にも起こった事態でもある。ヴィーラントと決裂してバイロイトを去ったカラヤンや、マゼールの先例もあり、ショルティやエッシェンバッハらも1年で降板している。バイロイトに限らず音楽祭での降板や変更は日常茶飯事であるものの、近年のバイロイトでは(かつてのブーレーズの頃とは違い)指揮者が激しい批判を浴びた場合、守るよりも手っ取り早く熟練した指揮者と交代させられるケースが増えてきている。

そのような中、2000年に『マイスタージンガー』を振ったクリスティアン・ティーレマンは久々の大型ワーグナー指揮者の登場として高い評価を獲得した。2006年からは『指環』の指揮を任され、音楽祭の音楽面の中核的存在となっている。

演出面では、シェロー演出の成功以降、ゲッツ・フリードリヒ、ハリー・クプファーらが舞台に現代社会の政治状況を投影する手法で新風を吹き込んだ。だが以降はこれといった新機軸を確立するまでには至っておらず、逆に目新しい演出へいたずらに走る傾向を「商業的」として非難する向きもある。近年ではキース・ウォーナーやユルゲン・フリムらが一定の評価を得た反面、クリストフ・シュリンゲンズィーフによる『パルジファル』のように否定一方の不評のままで終わる演出もある。

なお視覚面では、劇作家ハイナー・ミュラー演出の『トリスタンとイゾルデ』で、日本人デザイナー山本耀司が衣装を担当し、大きな話題になった。

総監督はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナー(2009年)

戦後、長年に渡って音楽祭を独裁的に切り盛りしてきたヴォルフガング・ワーグナーがついに引退を表明し、後任を巡ってその去就が注目されていたが、先のように2009年からは彼の二人の娘が総監督の座を引き継ぐ事になった。現在はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーの二頭体制に移行した。

ただし、二人は姉妹とはいうもののヴォルフガングの前妻の娘と後妻の娘という腹違いの複雑な関係であり、しかも33歳差という年齢差ゆえに必ずしも 親密な関係とは言いがたいようだ。当初2001年にヴォルフガングが引退を表明し、後継者として指名されたのは長年『影の支配者』と云われていた後妻のグ ドルンだったがワーグナー財団によって否決され、ヴォルフガングは引退を撤回したという経緯があった。そして後継者レースの中で経験が少なく、若さやルッ クスのような話題などメディアを意識した挑発行為が目立つカタリーナへの疑問や、グドルンによってバイロイトを前妻とともに追われたエファがヴォルフガン グによって追放されたヴィーラントの娘ニーケ・ワーグナーと 組んで、カタリーナと舌戦を繰り広げるという格好のスキャンダルをメディアに提供するなど、非常に険悪だったかつてのヴィーラントとヴォルフガング兄弟の 骨肉の争いの再来ぶりに、先行きを危ぶむ声も多い。早速カタリーナは、2007年の新演出の『マイスタージンガー』の演出を自ら手掛け存在感をアピールし た。しかし、その挑発的な舞台は一部の観客からブーイングを浴び、批評家やマスコミの間でも物議を醸した。

翌年の2008年からは、舞台中継のネットでの映像ストリーミング配信や会場外でのパブリックビューイングが カタリーナの肝入りにより始められた(2008年は『マイスタージンガー』、2009年は『トリスタンとイゾルデ』が生中継された)。これにより、会場外 の観客や世界各国のインターネット・ワグネリアンたちにもこれまで以上に音楽祭の雰囲気を楽しむことが出来るようになり、代変わりしたバイロイトらしい新 機軸として評判になった。

そしてヴォルフガングが死去してから初めての音楽祭となる2010年、ついにテレビでの生中継が実現する運びとなる(後述)。翌2011年の第100回目の開催では、ユダヤとの関係改善を目論むカタリーナの計らいでイスラエル室内管弦楽団がバイロイトを訪れ、市内のホールにてロベルト・パーテルノストロの指揮によりジークフリート牧歌を演奏した。この年の初日の演目は新演出の『タンホイザー』。メルケル独首相やトリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁夫妻ら、著名人が訪れた。

 

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