タンホイザー:バイロイト音楽祭

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FEB 2024 Next

タンホイザー

 

作曲&台本:リヒャルト・ワーグナー

 

あらすじ

中世のドイツでは、吟遊詩人としてうたう習慣が騎士たちの中でもあった。騎士の1人であるタンホイザーは、テューリンゲンの領主の親族にあたるエリーザベトと清き愛で結ばれていたが、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、愛欲の女神ヴェーヌスが棲んでいるという異界ヴェーヌスベルクに赴き、そこで肉欲の世界に溺れていた。

 

第1幕

ヴェーヌスベルクで快楽の日々を送っていたタンホイザーだったが、ある時夢の中で故郷を思い出し、ヴェーヌスベルクから離れようと決心する。ヴェーヌスは彼を引き止めようと誘惑するが、タンホイザーは強い意志によってそれを退け、ヴェーヌスベルクを消滅させる。

異界から脱出したタンホイザーはヴァルトブルク城近くの谷に放り出される。そこに領主のヘルマンや親友のヴォルフラムらが通りかかる。ヴォルフラムもまたヴァルトブルク城の騎士である。領主やヴォルフラムは出奔していたタンホイザーが帰ってきたことを喜び、再びヴァルトブルク城に戻るよう勧めるが、官能の世界に溺れた罪の重さを思ったタンホイザーはそれを拒否する。しかしヴォルフラムはエリーザベトが彼の帰りをずっと待っていると説得し、タンホイザーはヴァルトブルクに帰ることを受け入れる。

 

第2幕

ヴォルフラムらと共にヴァルトブルク城へと戻ったタンホイザーは、エリーザベトと再会を果たし、お互いに喜び合う。

その日はちょうど歌合戦が開かれる日(「歌の殿堂のアリア」、「大行進曲」)で、課題は「愛の本質について」。ヴォルフラムや他の騎士達が女性に対する奉仕的な愛を歌うのに対し、タンホイザーは自由な愛を主張して観衆の反感を買い、ついにはヴェーヌスを讃える歌を歌いだす(「ヴェーヌス讃歌」)。激怒した騎士たちはタンホイザーを諌め、エリーザベトは領主に彼の罪を悔い改めさせるように願う。我に返ったタンホイザーは自分のしたことを悔やむが、時すでに遅い。領主はタンホイザーを追放処分とし、ローマに巡礼に行き教皇の赦しが得られれば戻ってきてよいと言う。タンホイザーはローマ巡礼に加わりヴァルトブルク城を去っていく。

 

第3幕

舞台はヴァルトブルク城近くの谷。タンホイザーが旅立ってから月日がたつ。エリーザベトは、タンホイザーが赦しを得て戻ってくるようにと毎日マリア像に祈り続けている。ちょうどローマから巡礼の団体が戻ってくる。エリーザベトはその中にタンホイザーの姿を探すが、彼はいない。ついにエリーザベトは自らの死をもってタンホイザーの赦しを得ようと決意する。見かねたヴォルフラムは説得を試みるが失敗し、彼女は去っていく。(「夕星の歌」)

その場に一人残されたヴォルフラムの前に、ぼろぼろの風体のタンホイザーが現れる。ローマに行ってきたのかと尋ねるヴォルフラムに対し、彼は巡礼の顛末を語りだす。タンホイザーは幾多の苦難を乗り越えてようやくローマに到着し、教皇に赦しを乞うたのだという。しかし教皇は「罪はあまりにも重い」として彼を赦さず、「私の杖が二度と緑に芽吹くことがないのと同じく、お前は永遠に救済されない」と破門を宣告したのだという。絶望のあまり自暴自棄になったタンホイザーは、再びヴェーヌスベルクに戻ろうとしてさまよい、そうしてヴォルフラムに出会ったのだった。

タンホイザーの呼びかけに応じてヴェーヌスベルクが現れ、ヴェーヌスが手招きする。ヴェーヌスへ引き寄せられていくタンホイザーをヴォルフラムは懸命に引きとめる。そこへエリーザベトの葬列が現れる。タンホイザーは我に帰り、異界は消滅する。エリーザベトが自分の命と引き換えにタンホイザーの赦しを神に乞うたことをヴォルフラムが話すと、タンホイザーはエリーザベトの亡骸に寄り添う形で息を引き取る。ちょうどそこへローマからの行列が緑に芽吹く教皇の杖を掲げて到着し、特赦が下りたことを知らせて幕が下りる。

プログラムとキャスト

<スタッフ・キャスト>

 

指揮:Nathalie Stutzmann

演出:Tobias Kratzer

舞台装置:Rainer Sellmaier

衣装:Rainer Sellmaier

照明:Reinhard Traub

ビデオ:Manuel Braun

脚色:Konrad Kuhn

合唱指揮:Eberhard Friedrich

 

ヘルマン:Dmitry Belosselskiy

タンホイザー:Stephen Gould

ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ:Markus Eiche

ヴァルター・フォン・デア・フォーゲルヴァイデ:Siyabonga Maqungo

ビーテロルフ:Olafur Sigurdarson

ハインリッヒ:Jorge Rodríguez-Norton

ラインマル・フォン・ツヴェーター:Jens-Erik Aasbø

エリザベート:Elisabeth Teige

ヴェーヌス:Ekaterina Gubanova

若い羊飼い:Julia Grüter

オスカー:Manni Laudenbach

バイロイト音楽祭

バイロイト音楽祭(独: Bayreuther Festspiele)は、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトのバイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーの歌劇・楽劇を演目とする音楽祭である。別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭(Richard-Wagner-Festspiele)。

「バイロイトの第九」から現在まで

戦後、ヒトラー崇拝を止めなかったウィニフレッドを追放し、ヴィーラント・ワーグナー、ヴォルフガング・ワーグナーの兄弟が音楽祭を支えることとなり、バイロイトの民主化が一応なされた。1951年7月29日、フルトヴェングラー指揮の「第九」(そのライヴ録音が名盤として名高い)で音楽祭は再開された。再開後初出演したのはクナッパーツブッシュ(クナ)とカラヤンで あった。再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であった。苦肉の策でヴィーラントらは、最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて暗示的に舞台 背景を表現するという、新機軸の舞台を考案する。舞台稽古初日、舞台を見回したクナは愕然とする事になる。いまだにセットが準備されていないのだと思い込 み、「何だ、舞台がまだ空っぽじゃないか!」と怒鳴ったという。しかしこの資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻する事になる「新バイロイト様式」の始まりであった。

事情が事情であったが、指揮者のクナやカラヤンはこの演出に大いに不満であり、カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去ってしまった。クナもそうするつもりであったが、1953年の音楽祭に出演し、以降の出演も約束されていたクレメンス・クラウスが1954年に急死してしまった。慌てたヴィーラントとヴォルフガングはクナに詫びを入れ、音楽祭に呼び戻した。以降、亡くなる前年の1964年までクナはバイロイトの音楽面での主柱となった。「新バイロイト様式」の舞台は、ヴィーラントとヴォルフガングが交互に演出しながら1973年まで続いた。1955年には初のベルギー人指揮者として、ドイツ物も巧みに指揮したアンドレ・クリュイタンスが初出演。また、同年ヨーゼフ・カイルベルトが指揮した『ニーベルングの指輪』は英デッカにより全曲録音され、これが、世界初のステレオ全曲録音となった。1957年にはヴォルフガング・サヴァリッシュが当時の最年少記録(34歳)を打ち立てた。1960年には初のアメリカ人指揮者ロリン・マゼールが、史上最年少記録の更新(30歳)を果たして初出演した。1962年には巨匠カール・ベームが、1966年にはブーレーズが、1974年にはカルロス・クライバーがそれぞれ初出演した。演出の方も、1966年にヴィーラントが亡くなってからは弟のヴォルフガングが総監督の職を引き継いだ。ヴィーラント亡き後、ヴィーラントの遺族とヴォルフガング一家が互いの取り巻きを交えての内紛に明け暮れ、そのスキャンダルも相まって、同族運営が大きな批判に晒されるようになったことから、1973年、リヒャルト・ワーグナー財団に運営が移管された。同財団の運営権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府に最大の権限があり、次いでワーグナー家、バイロイト市、ワーグナー協会の順になっている。

1976年、ヴォルフガングは革新的な上演をもくろみ、音楽祭創立100周年の記念すべき『指環』の上演を、指揮者ピエール・ブーレーズと演出家パトリス・シェローの フランス人コンビに委ねた。シェローは気心知れた舞台担当や衣装担当を引き連れて、「ワーグナー上演の新しい一里塚」を打ち建てるつもりだったが、その斬 新な読み替え演出は物議を醸した。しかし初年度はブーレーズのフォルテを忌避するフランス的音楽作りともども、激しいブーイングと批判中傷にさらされてし まい、警備のために警察まで出動するという未曾有のスキャンダルになった。だがシェローは年毎に演出へ微修正を施し、ブーレーズの指揮も見る見る熟練して いったおかげもあり、最終年の1980年には非常に洗練された画期的舞台として、絶賛を浴びることとなった。

その後指揮者の顔ぶれは、レヴァインやジュゼッペ・シノーポリ、ダニエル・バレンボイムなどの若手や初のロシア人指揮者ヴァルデマル・ネルソンなど新しい顔ぶれに様変わりした。 2005年には東洋人として初めて大植英次が初出演を果たす。しかし、オペラ経験に乏しい大植の指揮は観客の不興を買い、1年で契約を打ち切られることとなった。翌年から『トリスタン』の指揮はベテランのペーター・シュナイダーに委ねられる。大植の降板劇は特に人種差別的なものではなく、過去の幾人かの指揮者にも起こった事態でもある。ヴィーラントと決裂してバイロイトを去ったカラヤンや、マゼールの先例もあり、ショルティやエッシェンバッハらも1年で降板している。バイロイトに限らず音楽祭での降板や変更は日常茶飯事であるものの、近年のバイロイトでは(かつてのブーレーズの頃とは違い)指揮者が激しい批判を浴びた場合、守るよりも手っ取り早く熟練した指揮者と交代させられるケースが増えてきている。

そのような中、2000年に『マイスタージンガー』を振ったクリスティアン・ティーレマンは久々の大型ワーグナー指揮者の登場として高い評価を獲得した。2006年からは『指環』の指揮を任され、音楽祭の音楽面の中核的存在となっている。

演出面では、シェロー演出の成功以降、ゲッツ・フリードリヒ、ハリー・クプファーらが舞台に現代社会の政治状況を投影する手法で新風を吹き込んだ。だが以降はこれといった新機軸を確立するまでには至っておらず、逆に目新しい演出へいたずらに走る傾向を「商業的」として非難する向きもある。近年ではキース・ウォーナーやユルゲン・フリムらが一定の評価を得た反面、クリストフ・シュリンゲンズィーフによる『パルジファル』のように否定一方の不評のままで終わる演出もある。

なお視覚面では、劇作家ハイナー・ミュラー演出の『トリスタンとイゾルデ』で、日本人デザイナー山本耀司が衣装を担当し、大きな話題になった。

総監督はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナー(2009年)

戦後、長年に渡って音楽祭を独裁的に切り盛りしてきたヴォルフガング・ワーグナーがついに引退を表明し、後任を巡ってその去就が注目されていたが、先のように2009年からは彼の二人の娘が総監督の座を引き継ぐ事になった。現在はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーの二頭体制に移行した。

ただし、二人は姉妹とはいうもののヴォルフガングの前妻の娘と後妻の娘という腹違いの複雑な関係であり、しかも33歳差という年齢差ゆえに必ずしも 親密な関係とは言いがたいようだ。当初2001年にヴォルフガングが引退を表明し、後継者として指名されたのは長年『影の支配者』と云われていた後妻のグ ドルンだったがワーグナー財団によって否決され、ヴォルフガングは引退を撤回したという経緯があった。そして後継者レースの中で経験が少なく、若さやルッ クスのような話題などメディアを意識した挑発行為が目立つカタリーナへの疑問や、グドルンによってバイロイトを前妻とともに追われたエファがヴォルフガン グによって追放されたヴィーラントの娘ニーケ・ワーグナーと 組んで、カタリーナと舌戦を繰り広げるという格好のスキャンダルをメディアに提供するなど、非常に険悪だったかつてのヴィーラントとヴォルフガング兄弟の 骨肉の争いの再来ぶりに、先行きを危ぶむ声も多い。早速カタリーナは、2007年の新演出の『マイスタージンガー』の演出を自ら手掛け存在感をアピールし た。しかし、その挑発的な舞台は一部の観客からブーイングを浴び、批評家やマスコミの間でも物議を醸した。

翌年の2008年からは、舞台中継のネットでの映像ストリーミング配信や会場外でのパブリックビューイングが カタリーナの肝入りにより始められた(2008年は『マイスタージンガー』、2009年は『トリスタンとイゾルデ』が生中継された)。これにより、会場外 の観客や世界各国のインターネット・ワグネリアンたちにもこれまで以上に音楽祭の雰囲気を楽しむことが出来るようになり、代変わりしたバイロイトらしい新 機軸として評判になった。

そしてヴォルフガングが死去してから初めての音楽祭となる2010年、ついにテレビでの生中継が実現する運びとなる(後述)。翌2011年の第100回目の開催では、ユダヤとの関係改善を目論むカタリーナの計らいでイスラエル室内管弦楽団がバイロイトを訪れ、市内のホールにてロベルト・パーテルノストロの指揮によりジークフリート牧歌を演奏した。この年の初日の演目は新演出の『タンホイザー』。メルケル独首相やトリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁夫妻ら、著名人が訪れた。

 

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