ワルキューレ:バイロイト音楽祭

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DEC 2023 Next

ワルキューレ
「ニーベルングの指環」第1夜


作曲&台本(ドイツ語):リヒャルト・ワーグナー

初演:1870年6月26日 ミュンヘン、宮廷歌劇場



 

 

あらすじ

 

時と場所:神話の時代、ライン川近くの森と岩山

 

第1幕 :館の内部

低弦の激しいリズムが嵐と同時にジークムントの逃走を表す。トランペットが稲妻のようにきらめき、ティンパニの雷鳴が轟くと、幕が上がる。

舞台はフンディングの館。戦いに傷つき嵐の中を逃れてきたジークムントは館にたどり着く。フンディングの妻ジークリンデはジークムントに水を与え、二人は強く引かれ合う。

そこへ主人のフンディングが帰ってくる。彼は男の顔が妻と瓜二つであることに気付く。ジークムントの名乗りを聞いたフンディングは、ジークムントが敵であること、今晩のみは客人として扱うが、翌朝には決闘することを申し渡す。

ジークリンデはフンディングに眠り薬を飲ませ、ジークムントを逃がそうとする。ジークムントによる「冬の嵐は過ぎ去り」(ジークムントの「春と愛の歌」)に応えて、ジークリンデも「あなたこそ春です」と歌い、二重唱となる[5]。生い立ちを語り合ううちに、二人は兄妹であることを知る。トネリコの木に刺され、かつてだれも引き抜いたことのない剣(ヴォータンがジークムントのために用意したもの)をジークムントは引き抜き、これを「ノートゥング」(苦難・危急の意)と名付ける。二人の逃亡によって幕。

 

第2幕:荒涼とした岩山

ジークムントとジークリンデの逃避行を表す。ヴァルキューレの騎行の動機が現れ、幕が開くとヴォータンとブリュンヒルデが立っている。

ヴォータンはブリュンヒルデに、ジークムントとフンディングの戦いでジークムントを勝たせるよう命じる。しかし、ブリュンヒルデが去ったところへフリッカが登場、フリッカは、ジークリンデの不倫、兄妹の近親相姦をなじる。ヴォータンは非難をかわそうとするが、「遠大な計画」(後述)の自己矛盾に気づかされ、心ならずもジークムントを倒すことを誓約する。

戻ってきたブリュンヒルデに、ヴォータンはジークムントに死をもたらすよう命じる。ヴォータンの長い叙事的語りによって、前作『ラインの黄金』以降のヴォータンの行動と「遠大な計画」が示される。しかし、ヴォータンの計画は挫折し、その最後は神々の終末の予感で頂点に達する。当惑するブリュンヒルデ。

ジークムントとジークリンデが登場。ジークリンデは幻覚にとらわれ、ジークムントが戦いで倒れる様を見て気を失う。

気を失ったジークリンデを介抱するジークムントの前に、ブリュンヒルデが姿を現す。ブリュンヒルデは、ジークムントがフンディングとの戦いで死ぬこと、死せる勇者はヴァルハルに迎え入れられると告げる(ブリュンヒルデの「死の告知」)。しかし、ジークムントは、ジークリンデと離ればなれになることを拒否し、いっそのこと二人で死のうとノートゥングを振り上げる。これを見て心を打たれたブリュンヒルデは、ヴォータンの命に背いてジークムントを救うことを決心し、彼を止める。

ブリュンヒルデが去ると、フンディングの角笛が響いてくる。フンディングを迎え撃つために、ジークムントはジークリンデを置いて立ち去る。ジークリンデは意識を取り戻すが、まだ幻覚から完全に覚めていない。雷鳴が轟き、ジークムントとフンディングの戦いが始まる。ブリュンヒルデがジークムントに加勢しようとするが、そのときヴォータンが現れ、自らが与えた剣ノートゥングを槍で砕く。武器を失ったジークムントは、フンディングの槍に刺されて絶命する。叫び声をあげるジークリンデを、ブリュンヒルデは愛馬グラーネに乗せて連れ去る。「行け!」の一言でフンディングを倒したヴォータンは、命に背いたブリュンヒルデへの怒りに駆られ、恐ろしい勢いで退場する。

 

第3幕:岩山の頂き

8人のヴァルキューレたちが声を上げながら岩山に集まってくる。

ブリュンヒルデが一人遅れてグラーネを駆ってやってくる。ブリュンヒルデがヴォータンに背き、ジークリンデを連れ出したことを聞いた他のヴァルキューレたちは恐慌状態となる。ジークリンデは絶望して死を望むが、ブリュンヒルデはジークリンデの体に子供が宿っていることを告げ、生きるよう説得する。「ジークフリートの動機」が初めて現れ、ブリュンヒルデは来るべき英雄をジークフリートと名付ける。ジークリンデは感謝の言葉を、これも初出の「愛の救済の動機」に乗せて歌い、砕かれたノートゥングの破片を持って森へと逃れる。そうしているうちにもヴォータンが近づいてくる気配が高まる。

ヴォータンが怒り狂って登場、ブリュンヒルデをヴァルキューレから除名し、父娘の縁を切ると告げる。他のヴァルキューレたちはとりなそうとするが、ヴォータンは聞く耳を持たず、彼女たちをみな追い払ってしまう。ヴォータンとブリュンヒルデの二人だけが残り、重苦しい沈黙となる。

ブリュンヒルデは、自分の行為はヴォータンの真意を汲んだものだと釈明する。娘の父への愛情に次第に心を動かされるヴォータンだが、しかし処罰は変えられないと言い放つ。ブリュンヒルデは、ひとつだけ願いをかなえてほしい、自分の周りに火を放ち、臆病者を近づけないようにしてほしい、と嘆願する。ブリュンヒルデの必死の訴えに、ヴォータンはついに「さらば、勇敢で気高いわが子よ」と歌う。これより「ヴォータンの告別」の音楽。ヴォータンはブリュンヒルデに「神である自分よりも自由な男だけが求婚する」ことを了承し、抱擁する。ブリュンヒルデの輝く目を見つめ、閉じさせるとまぶたに口づけして神性を奪う。力を失ったブリュンヒルデを岩山に横たえ、体を盾で覆う。槍を振りかざし、岩を3度突いてローゲを呼び出すところから「魔の炎の音楽」となる。岩から火柱が上がり、炎がブリュンヒルデを取り囲む。「まどろみの動機」が繰り返されるなか、ヴォータンは「この槍の穂先を恐れるものは、決してこの炎を踏み越えるな!」と叫ぶ。「ジークフリートの動機」が反復され、舞台一面の炎に包まれて横たわるブリュンヒルデから、ヴォータンは名残惜しげに去っていく。幕。

プログラムとキャスト

<スタッフ・キャスト>

 

指揮:Pietari Inkinen

演出:Valentin Schwarz

舞台装置:Andrea Cozzi

衣装:Andy besuchen

脚色:Konrad Kuhn

照明:Reinhard Traub

 

ジークムント:Klaus Florian Vogt

フンディング:Georg Zeppenfeld

ヴォータン:Tomasz Konieczny

ジークリンデ:Emily Magee

ブリュンヒルデ:Catherine Foster

フリッカ:Christa Mayer

ゲルヒルデ:Kelly God

オルトリンデ:Brit-Tone Müllertz

ヴァルトラウテ:N.N.

シュヴェルトライテ:Christa Mayer

ヘルムヴィーゲ:Daniela Köhler

ジークルーネ:Stephanie Houtzeel

グリムゲルネ:Marie Henriette Reinhold

ロッスヴェイセ:Simone Schröder

バイロイト音楽祭

バイロイト音楽祭(独: Bayreuther Festspiele)は、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトのバイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナーの歌劇・楽劇を演目とする音楽祭である。別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭(Richard-Wagner-Festspiele)。

「バイロイトの第九」から現在まで

戦後、ヒトラー崇拝を止めなかったウィニフレッドを追放し、ヴィーラント・ワーグナー、ヴォルフガング・ワーグナーの兄弟が音楽祭を支えることとなり、バイロイトの民主化が一応なされた。1951年7月29日、フルトヴェングラー指揮の「第九」(そのライヴ録音が名盤として名高い)で音楽祭は再開された。再開後初出演したのはクナッパーツブッシュ(クナ)とカラヤンで あった。再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であった。苦肉の策でヴィーラントらは、最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて暗示的に舞台 背景を表現するという、新機軸の舞台を考案する。舞台稽古初日、舞台を見回したクナは愕然とする事になる。いまだにセットが準備されていないのだと思い込 み、「何だ、舞台がまだ空っぽじゃないか!」と怒鳴ったという。しかしこの資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベームの新即物主義的な演奏とともに戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻する事になる「新バイロイト様式」の始まりであった。

事情が事情であったが、指揮者のクナやカラヤンはこの演出に大いに不満であり、カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去ってしまった。クナもそうするつもりであったが、1953年の音楽祭に出演し、以降の出演も約束されていたクレメンス・クラウスが1954年に急死してしまった。慌てたヴィーラントとヴォルフガングはクナに詫びを入れ、音楽祭に呼び戻した。以降、亡くなる前年の1964年までクナはバイロイトの音楽面での主柱となった。「新バイロイト様式」の舞台は、ヴィーラントとヴォルフガングが交互に演出しながら1973年まで続いた。1955年には初のベルギー人指揮者として、ドイツ物も巧みに指揮したアンドレ・クリュイタンスが初出演。また、同年ヨーゼフ・カイルベルトが指揮した『ニーベルングの指輪』は英デッカにより全曲録音され、これが、世界初のステレオ全曲録音となった。1957年にはヴォルフガング・サヴァリッシュが当時の最年少記録(34歳)を打ち立てた。1960年には初のアメリカ人指揮者ロリン・マゼールが、史上最年少記録の更新(30歳)を果たして初出演した。1962年には巨匠カール・ベームが、1966年にはブーレーズが、1974年にはカルロス・クライバーがそれぞれ初出演した。演出の方も、1966年にヴィーラントが亡くなってからは弟のヴォルフガングが総監督の職を引き継いだ。ヴィーラント亡き後、ヴィーラントの遺族とヴォルフガング一家が互いの取り巻きを交えての内紛に明け暮れ、そのスキャンダルも相まって、同族運営が大きな批判に晒されるようになったことから、1973年、リヒャルト・ワーグナー財団に運営が移管された。同財団の運営権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府に最大の権限があり、次いでワーグナー家、バイロイト市、ワーグナー協会の順になっている。

1976年、ヴォルフガングは革新的な上演をもくろみ、音楽祭創立100周年の記念すべき『指環』の上演を、指揮者ピエール・ブーレーズと演出家パトリス・シェローの フランス人コンビに委ねた。シェローは気心知れた舞台担当や衣装担当を引き連れて、「ワーグナー上演の新しい一里塚」を打ち建てるつもりだったが、その斬 新な読み替え演出は物議を醸した。しかし初年度はブーレーズのフォルテを忌避するフランス的音楽作りともども、激しいブーイングと批判中傷にさらされてし まい、警備のために警察まで出動するという未曾有のスキャンダルになった。だがシェローは年毎に演出へ微修正を施し、ブーレーズの指揮も見る見る熟練して いったおかげもあり、最終年の1980年には非常に洗練された画期的舞台として、絶賛を浴びることとなった。

その後指揮者の顔ぶれは、レヴァインやジュゼッペ・シノーポリ、ダニエル・バレンボイムなどの若手や初のロシア人指揮者ヴァルデマル・ネルソンなど新しい顔ぶれに様変わりした。 2005年には東洋人として初めて大植英次が初出演を果たす。しかし、オペラ経験に乏しい大植の指揮は観客の不興を買い、1年で契約を打ち切られることとなった。翌年から『トリスタン』の指揮はベテランのペーター・シュナイダーに委ねられる。大植の降板劇は特に人種差別的なものではなく、過去の幾人かの指揮者にも起こった事態でもある。ヴィーラントと決裂してバイロイトを去ったカラヤンや、マゼールの先例もあり、ショルティやエッシェンバッハらも1年で降板している。バイロイトに限らず音楽祭での降板や変更は日常茶飯事であるものの、近年のバイロイトでは(かつてのブーレーズの頃とは違い)指揮者が激しい批判を浴びた場合、守るよりも手っ取り早く熟練した指揮者と交代させられるケースが増えてきている。

そのような中、2000年に『マイスタージンガー』を振ったクリスティアン・ティーレマンは久々の大型ワーグナー指揮者の登場として高い評価を獲得した。2006年からは『指環』の指揮を任され、音楽祭の音楽面の中核的存在となっている。

演出面では、シェロー演出の成功以降、ゲッツ・フリードリヒ、ハリー・クプファーらが舞台に現代社会の政治状況を投影する手法で新風を吹き込んだ。だが以降はこれといった新機軸を確立するまでには至っておらず、逆に目新しい演出へいたずらに走る傾向を「商業的」として非難する向きもある。近年ではキース・ウォーナーやユルゲン・フリムらが一定の評価を得た反面、クリストフ・シュリンゲンズィーフによる『パルジファル』のように否定一方の不評のままで終わる演出もある。

なお視覚面では、劇作家ハイナー・ミュラー演出の『トリスタンとイゾルデ』で、日本人デザイナー山本耀司が衣装を担当し、大きな話題になった。

総監督はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナー(2009年)

戦後、長年に渡って音楽祭を独裁的に切り盛りしてきたヴォルフガング・ワーグナーがついに引退を表明し、後任を巡ってその去就が注目されていたが、先のように2009年からは彼の二人の娘が総監督の座を引き継ぐ事になった。現在はカタリーナ・ワーグナーとエファ・ワーグナーの二頭体制に移行した。

ただし、二人は姉妹とはいうもののヴォルフガングの前妻の娘と後妻の娘という腹違いの複雑な関係であり、しかも33歳差という年齢差ゆえに必ずしも 親密な関係とは言いがたいようだ。当初2001年にヴォルフガングが引退を表明し、後継者として指名されたのは長年『影の支配者』と云われていた後妻のグ ドルンだったがワーグナー財団によって否決され、ヴォルフガングは引退を撤回したという経緯があった。そして後継者レースの中で経験が少なく、若さやルッ クスのような話題などメディアを意識した挑発行為が目立つカタリーナへの疑問や、グドルンによってバイロイトを前妻とともに追われたエファがヴォルフガン グによって追放されたヴィーラントの娘ニーケ・ワーグナーと 組んで、カタリーナと舌戦を繰り広げるという格好のスキャンダルをメディアに提供するなど、非常に険悪だったかつてのヴィーラントとヴォルフガング兄弟の 骨肉の争いの再来ぶりに、先行きを危ぶむ声も多い。早速カタリーナは、2007年の新演出の『マイスタージンガー』の演出を自ら手掛け存在感をアピールし た。しかし、その挑発的な舞台は一部の観客からブーイングを浴び、批評家やマスコミの間でも物議を醸した。

翌年の2008年からは、舞台中継のネットでの映像ストリーミング配信や会場外でのパブリックビューイングが カタリーナの肝入りにより始められた(2008年は『マイスタージンガー』、2009年は『トリスタンとイゾルデ』が生中継された)。これにより、会場外 の観客や世界各国のインターネット・ワグネリアンたちにもこれまで以上に音楽祭の雰囲気を楽しむことが出来るようになり、代変わりしたバイロイトらしい新 機軸として評判になった。

そしてヴォルフガングが死去してから初めての音楽祭となる2010年、ついにテレビでの生中継が実現する運びとなる(後述)。翌2011年の第100回目の開催では、ユダヤとの関係改善を目論むカタリーナの計らいでイスラエル室内管弦楽団がバイロイトを訪れ、市内のホールにてロベルト・パーテルノストロの指揮によりジークフリート牧歌を演奏した。この年の初日の演目は新演出の『タンホイザー』。メルケル独首相やトリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁夫妻ら、著名人が訪れた。

 

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